台風が近づく夜。
雨戸を閉めたあとも、母親は何度も窓を確かめています。
スマートフォンで雨雲の動きを確認し、非常袋を玄関に置き、眠る前にもう一度、外の様子を見る。
子どもが尋ねます。
「そんなに危ないの?」
母親は「念のためよ」と答えます。でも、声には緊張が残っていました。
母親自身は、大きな水害を経験したことがありません。
ただ、母方の祖母は、若い頃に洪水で住まいを失い、その後も大雨の日には眠れなくなることがあったそうです。
だからといって、母親の警戒心が祖母の体験から直接生まれたと決めつけることはできません。
災害への備えは大切ですし、天候によっては警戒が必要な夜もあります。
それでも、家族が危険をどう感じ、何を怖れ、安心するために何をしてきたかは、子どもが日々の生活の中で見ているものです。
世代間トラウマとは、親や祖父母など前の世代が経験した強いストレスやトラウマの影響が、次の世代の心の健康や親子関係、ストレスへの反応などに関連して現れる現象を指します。
必ず同じ出来事が起こるわけでも、心の傷がそのまま遺伝するわけでもありません。
ここで考えたいのは「誰のせいで不安になったのか」ではなく、家族が安心を取り戻すために、今どんな支えが必要なのかという問いです。
世代間トラウマは、英語で intergenerational trauma と呼ばれます。
戦争、災害、暴力、虐待などのつらい体験をした本人だけでなく、その子どもにも心理的な影響が見られることがある、という文脈で使われる言葉です。
ただし、似た用語は区別しておく必要があります。
| 用語 | 主に指すもの |
|---|---|
| 世代間トラウマ | 前の世代のトラウマ体験と次世代の心身・関係性の間に見られる関連 |
| 世代間連鎖 | 養育行動や価値観、関係のパターンなどが世代を超えて関連する、より広い現象 |
| 小児期逆境体験(ACEs) | 虐待や家庭機能の問題など、子ども時代に経験した逆境 |
| PTSD(心的外傷後ストレス症) | トラウマ後の再体験、回避、過覚醒などにより生活に支障が生じる、診断基準のある状態 |
親にトラウマ体験があっても、子どもがPTSDになるとは限りません。
また、家族に不安が強い人が複数いるだけでは、世代間トラウマだと判定できません。
「なんとなく気が合わない」「親と価値観が違う」といった一般的な親子の葛藤を、何でもトラウマと呼ぶことにも注意が必要です。
大切なのは、出来事そのものと、その後の暮らしを分けて考えることです。
災害が終わっても、家を失った人には生活再建が必要です。
暴力から離れたあとも、音や人の表情に強く反応することがあります。
つらい経験をした人が、子どもを大切に思いながらも、十分に休めず緊張した日々を送る場合もあるでしょう。
そのとき子どもが経験するのは、親の過去の出来事そのものではありません。
その出来事の後を生きている親との日常です。
2026年3月に発表されたMewらのシステマティックレビューとメタ分析では、29研究、母子約35万組のデータが検討されました。
母親の子ども時代のトラウマと子どものメンタルヘルスとの関連において、母親自身の心理的健康、愛着の特徴、社会的支援などが重要な媒介要因として検討されています。
ただし、これは集団における統計的な関連の研究です。
「この子の不安は母親の過去が原因」と個別に断定できるものではありません。
また、研究が母子に偏っているため、父親やほかの養育者の影響については研究の蓄積に差があります。
影響の経路として考えられるものを、三つに整理してみます。

親が過去の経験から強い警戒心を持っている場合、大きな音や予定外の変化に敏感になることがあります。
子どもはその反応を見て、「こういう場面では危険があるのかもしれない」と感じることがあります。
ただし、親の慎重さがすべてトラウマによるものとは限りません。現実に危険がある場面では、警戒することは必要です。
親のつらい経験について、家族で一切話せないことがあります。
反対に、子どもが受け止めきれないほど詳しく、繰り返し話される場合もあるでしょう。
2025年にオンライン公開された親子コミュニケーションのシステマティックレビューは、31研究を検討し、親のトラウマ体験後の怒りっぽさ、引きこもりがちな反応などが、一般的な親子の会話に影響する可能性を報告しています。
一方、トラウマについて「話す方がよいか、話さない方がよいか」を一律に決められるほど証拠は十分ではありません。
大切なのは、子どもの年齢や理解力、安心できる環境に合わせて扱うことです。
親が困難を経験したあと、経済的な不安や孤立が長く続くことがあります。
それは家族の生活に影響し、子どもの安心感にも関わります。
一方で、親を支える人がいること、家庭以外にも信頼できる大人がいること、生活が安定していることは、困難の影響を和らげる方向に働き得ます。
つまり、過去のトラウマだけでなく、現在の支援環境を見ることが重要なのです。
具体例を考えるとき、祖父母・親・子がまったく同じ行動をするとは考えない方がよいでしょう。
次は、仕組みを理解するための架空の例です。
祖母は大きな災害を経験して以来、物資を切らさないように暮らしていました。
娘である母親は、大雨が降るたび何度も予報を確かめます。
その子どもは、家が安全な日でも、家族の表情を見て「何か悪いことが起きるのでは」と気にしている。
ただし、防災の習慣そのものは有益です。
確認すべきなのは備えの有無ではなく、不安によって眠れない、生活が狭まるなどの困りごとがあるかどうかです。
祖父は大切な人を亡くした経験を、ほとんど語りませんでした。
父親も落ち込んだときに「大丈夫」と言うばかりです。
子どもは、つらい気持ちを誰かに伝える方法を十分に学ぶ機会がなかったかもしれません。
ただ、悲しみを多く語らないことが、それだけで不健康なのではありません。
本人が望む距離感を尊重することも必要です。
過去に深く傷ついた経験がある親が、「この子だけは危険な目に遭わせたくない」と強く考える。
その結果、年齢相応の挑戦まで止めてしまう場合があります。
子どもからすると、守られている安心と、自分では決められない息苦しさが同時に存在するかもしれません。
ここで必要なのは、親を「加害者」と決めつけることでも、子どもの苦しさを軽く扱うことでもありません。
どの関わり方が現実に負担になっているかを具体的に確認することです。
「祖父母のトラウマが遺伝子に刻まれて孫へ伝わる」という説明を見かけることがあります。
エピジェネティクスは、DNAの塩基配列自体を変えずに、遺伝子の働き方の調節を扱う研究分野です。
強いストレスと遺伝子の調節に関わる指標との関連を調べた研究はあります。
しかし、人間で経験したトラウマが特定のエピジェネティックな変化として何世代も安定して遺伝し、孫の症状を直接引き起こすと証明されたわけではありません。
家族は遺伝子だけでなく生活環境も共有するため、何が影響しているのかを区別するのは難しいのです。
2026年の研究レビューでも、標本数の少なさ、測定方法の違い、世代をまたぐ追跡研究の不足などが限界として挙げられています。
「心の傷は遺伝するから避けられない」という説明は、科学的にも適切ではありません。
では、世代間トラウマへの影響を弱めるには、何ができるのでしょうか。
最初に区別したいのが、「祖父母の出来事を詳しく調べること」と「今の自分や家族が安全に暮らせること」です。
過去を知ることに意味を感じる人もいます。
しかし、過去を思い出すこと自体がつらさを強める人もいます。
家族の話を無理に聞き出したり、傷ついた体験を一人で繰り返し掘り起こしたりする必要はありません。
今の生活の中でできることから考えます。

家庭内で暴力や威圧が続いているなら、相手との対話よりも安全が優先です。
必要に応じて公的な相談窓口や支援機関につながってください。
危険な関係で無理に「家族の歴史を理解し合おう」とする必要はありません。
たとえば子どもが帰宅時間に遅れたとき、不安になって何度も連絡してしまうとします。
「何時に帰る予定だったか」「今は連絡が取れるか」という確認が必要な事実と、「何かひどいことが起きたのでは」という頭に浮かんだ心配を、分けてみます。
自分の反応を観察することは役立つ場合があります。
ただし、それだけでトラウマ症状が治るわけではありません。
家族全員が同じ不安を抱えているように感じるとき、家庭の外の友人、支援者、専門家などの存在が助けになることがあります。
米国CDCも、小児期逆境体験の予防と影響の軽減において、安全で安定し、養育的な人間関係と環境を重視しています。
「家族の問題だから家族だけで解決しなければならない」と考える必要はありません。
つらい出来事を思い出して苦しくなる、悪夢が続く、強い警戒心によって生活に支障が出るなどの場合には、医療機関や臨床心理の専門家に相談する方法があります。
PTSDについては、トラウマに焦点を当てた認知行動療法(トラウマ焦点化CBT)やEMDRなど、臨床ガイドラインで推奨されている治療法があります。
どの方法が適切かは、本人の状態や希望を踏まえて判断されます。
家系を振り返るセッションや一般的なセルフワークは、こうした治療の代わりになるものではありません。
家族の歴史に関心を持つと、祖父母が経験した出来事を詳しく知りたくなることもあるでしょう。
しかし、記録が残っていない場合もあります。
親が話したがらない場合もあります。
過去の記憶をたどることで、本人が再び強いつらさを感じる場合もあります。
そのため、家族のトラウマを理解するために、誰かの体験をすべて語らせる必要はありません。
わからないことを、推測で埋めないことも大切です。
家族の歴史を整理する方法に関心がある方には、「家系図の作り方とは?初心者でもわかる3世代の家系図と調べ方」も参考になります。
ただし、家系図からトラウマの原因を診断することはできません。
いいえ。親や祖父母が強いストレスを経験しても、その影響が子や孫に必ず現れるわけではありません。親子の関係、現在の生活環境、周囲からの支援など、さまざまな要因が関わります。
そう決まっているわけではありません。統計的に関連が見られる研究はありますが、個人の行動や将来を予測できるものではありません。親自身へのケアや支援、養育環境の改善も大切です。
同じではありません。世代間連鎖は、養育行動や価値観などの広い関連を指します。世代間トラウマは、強い逆境やトラウマ体験が次世代に及ぼす可能性のある影響に焦点を当てます。
はい。過去の出来事を完全に解明しなくても、現在の安全を確保し、困っている反応に対処し、必要な支援につながることはできます。
年齢や状況によって異なります。子どもが安心できる範囲で話すことが役立つ場合もありますが、詳細を無理に伝えたり、子どもに親の感情を支えさせたりすることは避けるべきです。判断が難しい場合は専門家に相談してください。
世代間トラウマは単独の診断名ではないため、一つの治療法で一律に「治す」ものではありません。PTSD、強い不安、親子の困難など、それぞれの状態に応じて支援や治療を受けられます。
最初の台風の夜に戻ってみましょう。
祖母には、家を失った経験がありました。
母親には、危険を避けたい気持ちがあります。
子どもは、その不安を敏感に感じ取っているのかもしれません。
けれども、そこから先の暮らし方には、いくつもの選択肢があります。
必要な備えをしながら、「今日は安全な場所にいる」と確認すること。
怖い気持ちを一人で抱えず、家族や支援者に伝えること。
子どもが不安そうなら、何が心配なのかを落ち着いて聞くこと。
過去に起きた出来事は変えられません。
しかし、その出来事の後に、家族がどのように安心を築いていくかについては、今から取り組めることがあります。
家族の歴史に目を向ける価値は、誰かを原因として責めることではありません。
かつて危険の中で身についた反応が、今も必要なのかを考え、現在の安全に合った方法を増やすことにあります。
何もかも理解し、すべてを癒やしてからでなければ前に進めないわけではないのです。
そして、次の世代へ渡せるものは、不安だけではありません。
困ったときに助けを求められる経験も、意見が違っても話し合える関係も、少しずつ育てられます。
受け継がれる可能性があるのは、傷の影響だけではない。安心をつくり直す方法も、日常の中で示していけるのです。
人間関係で強く不安になる。必要以上に相手の反応を気にする。自分の気持ちを後回しにしてしまう。
そうした繰り返しの背景を考える際、家庭で経験した関わり方に目を向ける方法があります。
家系心理学®・家系療法®についてでは、家族や家系の関係性を読み解く独自の考え方を紹介しています。
また、下記にて「繰り返す人生パターンの正体がわかる特別動画(ワーク付き)」をご案内しています。
ただし、この動画や家系心理学のセッションは、PTSDなどの診断・治療を代替するものではありません。
症状が強い場合や安全上の問題がある場合は、医療機関や公的な相談窓口を優先してください。
※世代間トラウマの研究は集団の関連を扱っており、特定の個人の症状の原因を家族歴から確定するものではありません。家系心理学の独自の解釈と、臨床研究で確認された事実は区別してお読みください。